1977年出版された本で名付けられた「乱塾」という言葉が象徴するかのような、以降の(学習)塾は群雄割拠時代へと突入していきました。当時はまさに1960年代から始まった高度成長期の真っただ中で、産業の中心は農業に代表される一次産業から自動車産業等製造業に代表される二次産業、さらにはサービス産業と言われる三次産業へと時代も大きな変化を迎えようとしていました。1967年には東京都の「学校群制度」導入で、当時最難関国立大学合格者数で他の追随を許さなかった都立名門校は、あっという間に中高一貫校にその座を明け渡す結果となっていきました。更に追い打ちをかけるように、1968年には「新幹線授業」と揶揄されるような超過密な学習指導要領告示で、授業についていけない子供が、小学校で7割、中学校では5割、そして高校では何と3割という、俗にいう「七五三教育」というような状況が作り出されていったのです。「高学歴社会」へ向けた下地が整っていくなか、1970年には高校進学率7割にまで達する状況となっていました。そうした時代背景のもと、親は子供を一流大学へ入れ、さらに大手一流会社へ入社させるというエスカレーターに何とか乗せようと、こぞって高い費用を払い「塾」へ通わせるようになっていったのです。このような親に対して世間の目は冷ややかで、更に矛先はそのような受験戦士を育てようとするかのような進学「塾」にも向けられるようになっていきました。そんな時代に育った人間に育てられた子供が親となり、子供を学校に通わせている現在が、一時の「ゆとり教育」と言われていた時代を経てまた「脱ゆとり教育」へと回帰していくことに、何か複雑な思いを感ぜざるを得ません。